無能会社員の午前中

「怠いな、仕事辞めたいな。」
 駅に向かう道すがら、無意識に独り言が出てしまった。しかも、結構大きい声で。前を歩いている女性がギョッとして振り返ってきた。咄嗟に下を向いてごまかす。ごまかせたか?たしかにそういうことは頭の中に浮かんではいたが、口に出そうなんだなんて思ってはいなかった。それなのに、いつのまにか言葉が漏れ出していたのだ。そういえば、この前は家にいるのに「帰りたい」と呟いていた。そろそろ俺も重症なのだろうか?
 全くやる気がないまま社会人8年目。いや、正確に言えば、3年目までは俺にもやる気があった。仕事を頑張って、将来は部長になりたいと思っていた。しかし、いつのまにかやる気をなくしていた。きっかけはなんだったのだろうか。特にこれと言う出来事は思いつかないが、本当にいつの間にか。仕事はどんどんできなくなっていき、当然昇進試験にも受からない。同期にもだいぶ差をつけられ、数年前からは受験もやめた。後輩からもだいぶ馬鹿にされているらしいと噂で聞いた。なにも積み上げないまま今年30歳。俺の市場価値なんて、ほぼゼロに近いだろう。だから当然転職なんてできない。一生この会社にしがみついていくしかないのだ。しかし、どんな会社も先のことはわからない世の中だ。無能な社員が会社にしがみつくなんていうことが通用したのは過去のファンタジーなのかもしれない。俺のようなやる気がない社員を飼う余裕がある会社なんてどんどん減ってくるだろう。見たところうちの会社もそんなに余裕があるとは思えない。それならば定年まで逃げ切ることはできなくても、少しでも時間を稼ぐしかないだろう。クビになったらそのときはそのときだ。一人だったら何とかして生きていけるんじゃないだろうか。
 やれやれ、満員電車には閉口してしまう。これに乗るだけで体力の大部分を削られて、仕事の能率も上がらない。なんて、一端のサラリーマンのようなことを言ってみる。俺の場合はタクシーで優雅に通勤したところで同じことだと思う。
 会社に着くと、挨拶なのかなんなのかよくわからない言葉をモゴモゴと呟いて、自分の席に座る。やることは山のようにあるはずなのだが、全くやる気が出ない。パソコンを開いてメールソフトを立ち上げる。未読のメールの件数が目に入ってきた。でも開封はしない。まだその時期ではない。インターネットを開くとYahooのトップ画面が出てくる。その中から面白そうなコラムを開いてしばし読む。どの記事も大体同じような構成で、ライターが適当に書いたんだろうなと思うような記事ばかりだ。本当なのか嘘なのかも曖昧だ。つまらないなと思いつつも、ついつい読み進めてしまう。既に中毒になっているのだろう?
 あっという間に20分が経過してしまった。そろそろ仕事を始めた方が良いのではないか。気持ちは焦り始めるのだが、身体は動かない。ネットサーフィンを続けてしまう。心だけすり減らして仕事は全く進んでいない。自分としてはとてつもないストレスを感じている。メンタルで休職するかもしれないな。側から見れば馬鹿みたいな話だろう。お前ネットサーフィンしているだけで、全く仕事をしていないじゃないか。違うのだ。身体が動かないんだ。
 課長が業務の指示で話しかけてきた。何を言っているのか理解できない。何となく深刻そうな顔をして話を聞く。なんでも良いから早く話が終わってほしい。内容なんて理解できないんだから。やっと話が終わったが、なんと言っていたかなんてもう覚えていない。こうして、仕事の実績ではなくミスが積み重なっていくんだ。ミスが積み重なると、評価はどんどん下がっていく。重要な仕事なんて任せることはできない。30歳で新卒並みの仕事しかできない社員なんて、給料日泥棒に他ならない。朝考えていたクビというのもあながち遠い話ではないのかもしれない。
 何となくダラダラしているうちに昼になってしまった。しかし、「あっという間」という意識はない。結果だけ見れば、俺は午前中いっぱいかかってメールを2本送っただけだ。しかし、仕事をしなくとはいけないとお思いながら、ついネットを見てしまい、気持ちだけ焦るというループにハマり、精神的に非常に疲弊している。昼休みは疲れた身体と心を休めることにしよう。
 お腹は全然空いていない。全然食べたくはないが何か食べないといけないという謎の義務感からコンビニに行きおにぎりを2個買ってきた。デスクで無理矢理お茶でも流し込む。何となくスマホを見ているだけで昼休みが終わる。昼休みの勉強で人生が変わるなんていう人もいるが、そんなのは無理だろう。自分には全くやる気がないのだから。
 昼休みが終わった。さあ午後はきちんと仕事をするぞ。まずはメールに返信をするか。
「鈴木くん、ちょっと来てくれ」
 決意も新たに午後の仕事が始めたら、部長に呼ばれた。俺のような平社員が部長に呼ばれることなんて珍しい。何だろう?